それに気が付いた時には遅かった。
日曜日。
その日の午後、商店街の賑わいを肌で感じながら、通りを歩いていた。暑すぎる夏は通り過ぎ、涼やかな風が肌を撫でていく。強すぎた日差しも、すっかりその姿を影に潜め、穏やかに俺を照らしている。もう少しで紅葉の時期になるらしく、木々の葉は所々が少しだが色を変えている。もうすぐ秋である。
俺はいつもならこの時間はバイトをしている。しかし、それが突然無くなってしまったので、町中を散策と称して、意味もなく歩いている。商店街独自の空気は、居るだけで少し気分を上昇させる。会社員、学生、主婦と道行く人へ視線を彷徨いさせ、俺は道沿いにあるこぢんまりとした看板に目を止めた。それは、CMで紹介していた流行映画の看板。テレビにしつこいほど流れていたそれは、どれほど面白いのだろうか……、俺は少し興味を抱き、興味本位に映画館へと入って行った。
そして、気まぐれで映画館に入ったのが不味かったのか。それとも、場所が不味かったのか。それ以前の問題だったのか。いくら考えても状況は変わらない。
俺は、目前で彼女の浮気現場を目撃してしまった。
見知った服装、髪形、表情はそれが彼女だと俺に突き付ける。彼女は知らない男に向かって笑顔を作る。今まで自分へと向けられていた笑顔を他人に向けている。それがこんなにも悲しいものだとは知らなかった。俺は映画など全く頭に入らず、カップルの方へと視線を定めたまま、映画終了するまで動けなかった。
映画館内から出てくると、夕暮れ時の商店街は、ますます買い物客で賑わいを見せていた。その賑やかさとは裏腹に俺は、焦燥感に捕らわれている。薄暗い映画館から出てきたせいか、オレンジ色の太陽が、目に眩しい。俺は二、三度瞬きをして、太陽に目が馴染んだころに、前を行く彼らへと再び視線を移す。目を逸らした際に、居なくなっていてほしかった。そんな思いが一瞬頭を過ぎる。けれど、変わらず彼らの姿は存在している。俺は、彼らの後へ続くように歩き出す。その間、彼女と男はお互いに腕を絡め、まるで恋人同士だ。ただ黙々と彼らを俺は追いかける。
追い続ける内に、早々と太陽は西の空へと沈んでしまった。辺りの街頭や、民家に明かりが灯られていく。太陽が沈み、ますます外気が冷えてくる。
二人は賑わう商店街を通り過ぎ、住宅路の奥にある薄暗い公園へと、入っていった。俺は足を止める。
薄暗い道に飲まれていくような気分だ。俺は彼女を止めることなど無理だ。そして、あの二人は傍から見ても一目瞭然に恋人同士で、俺は当然邪魔者になる。
自嘲気味に考えながら、ため息を一つ吐き出す。それ以上の理由も見出せず、俺は踵を返し、家の方へと足を向けた。
「……ひっ!」
しかし、その時か細い声に俺は再び足を止めた。はっ、として二人が去った方へと走り出す。諦めきれていない気持ちが俺の背中を押していた。
薄暗さに包まれた公園は、視界が悪かった。夕食時の時間帯で、子供は既に帰宅しているのだろう……、人影も見えない。俺は入り組んだ道を通り抜け、荒れ放題の垣根を掻き分け、悲鳴の聞こえた場所、公園の中央へと飛び出した。
そこには、想像していた光景はなかった。その代わりに、辺りには噎せ返る血の匂いが充満し、俺を出迎える。俺は咄嗟に口を押さえる。鉄臭い臭いに、吐き気が込み上げ、背筋が震えた。
目の前には、男の背中が見える。その向かい側に彼女がいた。一見抱きあっているように見える。だが、なにかおかしい。
そして、俺は彼女の方へ目を向け、そして止まった。
彼女の目から涙が溢れていた。彼女は俺に気がつくと、視線をこちらに向け、懸命に口をぱくぱくと開く。しかし、言葉は届かない。声が、音が、出ていない。
そして、彼女の動きはだんだんと緩慢になり、最後には停止してしまった。眠るように瞼を閉じた彼女の目から、終わりを告げるように一粒の涙が、頬を伝っていった。
理由は簡単で……彼女の胸元には深々とナイフが埋め込まれ、大事なものが流れてしまったからだ。
動かなくなった彼女から、男がゆっくりとナイフを引き抜く。彼女の体は、どさりと重力に従って落ちた。そして、ゆっくりと男がこちらに振り返る。真っ赤な色に包まれたナイフを手に掴んだまま。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!!」
目を合わせては駄目だと本能で悟った途端、俺は叫び声を上げながら、男に背中を向けると一目散に駈け出す。そして、蟠る言葉は一気に頭から消え失せ、恐怖のみに埋め尽くされる。それは、身に迫る死の近さへの恐怖だ。
公園を走りぬける。意図せずに、人通りがまったく無い住宅街の方へ出てきてしまった。住宅の中からは、平和そうな笑い声が聞こえてくる。冷静に考えれば、助けを求めればよいのに、俺は既に冷静な判断は無くなり、その場から逃げることのみが最優先事項になっている。
震える膝を懸命に動かし、全てを足に入れるような気持ちで、力を込める。極度の恐怖と、日ごろの運動不足から、簡単に息は上がり、体中が悲鳴を上げた。
やっとの思いで自分の見知った近所を走り抜け、自分のぼろアパートの階段を駆け上がり、一番奥の自室へと飛び込む。そして、すぐさま鍵を閉めた。そして、ドアの前でしゃがみ込む。
1Rの狭い部屋。目と鼻の先には、敷いたままだった布団が目に入る。何も変ったところの無い部屋の中は静寂に包まれ、俺の呼吸音しか聞こえない。過剰な運動の汗と、恐怖の冷汗が体から吹き出ている。額に髪が張り付くのを手で掃った。
そして、幾分か時間が過ぎたが、男が来る気配はなかった。
しかし、俺はその場に座り込んだまま、恐怖に体を小さくして震えていた。
俺の頭の中はその間も彼女の蒼白な顔がくり返しくり返し映し出されていた。
月曜日。
俺はいつの間にか眠っていたようだ。体が重い。緩慢な動きで体を持ち上げる。
しばらく部屋を見回し、鈍くなっていた思考が動き出す。フラッシュバックのように昨日の情景が甦る。
「彼女はどうなったのだろう……」
俺はすぐさま、テレビをつけた。1、2、3…とボタンを押していくが、平和な昼番組のみ。昨日の残忍な事件のことなど、一切触れていない。
「夢だったのか……?」
そんな事はあるはずがない。俺は慌てて携帯電話のアドレス帳から彼女の電話番号を取り出し、ゆっくり通話ボタンを押した。頼むから出てくれ。そう願わずにはいられない。
そして、携帯特有の相手を呼び出し中だと音楽が流れ始める。それと同時に思いもよらないことが起こった。ボタンを押したと同時に軽快な音楽が外から聞こえてくる。それは、彼女が好きで着信音にしていたはずの曲。
俺は慌ててドアを開けた。しかし、彼女の姿は無い。しかし、音楽は絶え間なく鳴り続けている。俺は、その方向へとゆっくりと視線を移した。
ドア横にある全自動洗濯機。その中から、軽快な音楽が聞こえてくる。俺は息を呑んだ。自分の心拍音がうるさいほど耳に響く。
その時、ピ――、と携帯の電池が切れた音が洗濯機の中から響く。それと同時に俺の携帯から、「おかけになった電話番号は……」と女性の機械音が流れ始める。俺は携帯を手に握り締めたまま全自動洗濯機に近づく。
そして、ゆっくり洗濯機のドアを開けた。汗がじんわりと手に浮かぶ。
そして、白い白い手が見えた。
「……っ!」
俺は、すぐさま部屋に戻り、警察に電話しようと番号を押していく。その時ボタンを押していた手が止まった。
俺の家で見つかったら、俺が殺した事になるんじゃないか。動機も明確だ。俺が犯人になるのではないだろうか。彼女の両親は俺の所にいると考えているのかもしれない。昨日の俺の行動は、完璧に商店街の人々に見られたはずだ。
疑われるのは俺である。そして、此処に居ると言う事実がさらに恐怖を掻き立てる。つまり、あの男は知っているということだ。俺の居場所を。
その後、俺は警察へ電話をする事も出来ないまま、昨日の場所へと足を進めた。
昼時の温かい日差しにあたりながら、街路樹が並ぶ道を通り抜け、記憶に新しい場所へと辿り着く。確か街頭の傍だった。しかし、そこには何も存在していない。大量にあったものは忽然と姿を消していた。俺は唖然とその場に立ち尽くした。
夢ではない、しかし夢のような状態に陥っている。俺は、これからどうするかを反芻していた。
いつの間にか、日はすっかり暮れ、辺りは夕食時。俺はコンビニのバイトをさぼり、暫く公園で座り込んでいたが、辺りが冷えてきたので、自宅へと戻ってきた。暗くぼろい階段を上る。階段を一歩一歩上がる度に古さ特有の鈍い軋んだ音を響かせた。家の前に辿り着き、変わらず存在する洗濯機に目を止め、視線を逸らす。
俺は週末に彼女を海に捨てる。色々と考えて、そうすることにした。俺はそっと、瞼を閉じる。視界が真黒になると、次から次に彼女の顔を思い出す。
なんて、最低な彼氏なのだろう。彼女に愛想を尽かされたのも当たり前だ。俺は彼女を簡単に切り捨ててしまえるほど、正々堂々と彼女を愛していなかった。今更気がついてもやり直しが利かない。なのに、溢れ返るこの気持ちは何なのだろう。気がつけば、涙が溢れて止まらなくなっていた。慌てて部屋の中に入り込む。ドアに背を当て、そのままずり落ちるように俺は座り込むと、嗚咽が聞こえないように腕で口を塞ぎながら、涙が止まるのを待った。
火曜日。
煩い雑音に目が覚めた。乱雑にドアを叩く音がする。重い瞼を開き、窓から差し込む光に目を顰めた。俺は包まっていた布団から抜け出し、重い体を引きずるようにドアを開けた。
「開けるの遅いよ、夕兄さん」
「占……」
突然の妹の訪問に、俺は呆気にとられながら、妹を見下げた。ショートカットの黒髪に、高校の赤いリボンがついた紺色の制服を着た姿で俺を見上げて笑っている。確か、今日は平日である。俺は、壁にある時計に視線を移し、9時28分と確認した。このぐらいの時間は、既に授業は始まっているはずだ。訝しげに妹に視線を移すと妹は堂々と一言。
「家出してきた」
説得を試みたが、理由も話さない妹。ずかずかと部屋に入り込むと、狭い部屋をぐるりと見回し、汚いと呟く。仕方ないだろ、と俺が言うと顔を顰めた妹は、部屋の奥にある窓を開け、敷きっぱなしだった布団を柵に引っ掛ける。すぐさま、どこからか掃除機を引っ張り出して、掃除をし始めてしまった。俺は、閉口して立ち尽くしていると、「はいっ」と言いながら妹が布団叩きを差し出してきた。俺は妹に急き立てられ、しぶしぶ布団叩きを携え、窓にある布団を叩きだす。
妹に喧嘩を売れば、負けるのは自分だと分かっているので強く言うことが出来ない。妹を心配した両親が、習わせた空手道場に通う妹は俺より男らしいのだ。
俺はリズミカルに布団を叩く。その度に埃が舞い上がり、階下へと落ちていく。視界の端で妹を見やると、妹は散らばった衣類を纏めて籠に詰ていた。それの行先はもちろん洗濯機だろう。妹が玄関から外の洗濯機に行こうとしている。“彼女”がいる洗濯機へ。
「……うっ、占っ!」
俺は慌てて妹の肩を掴んだ。その途端、視界が反転し、床に体を打ちつけた。痛みに眉を顰める。衣類が辺りに撒き散っていた。妹に投げられる兄とは情けない。
「たくっ、びっくりするじゃないっ!」
「……せ、洗濯機は壊れてるんだ」
俺は体を起こしながら、痛む節々を撫でる。しかし、妹は訝しげな表情をしている。そんな妹に俺はため息を吐き出し、言う。
「……占、何があったか知らないけれど、こんなの駄目に決まってるよね?」
唐突の言葉に、怯んだ占に、「家出するって事は逃げてるだけなんだから、さ」と畳み掛けるように言った。
占は、顔に有り有りと不満の色を浮かべ、無造作に傍に落ちていたシーツを手に取ると俺に投げつけた。視界が一種に真っ白になる。慌ててシーツから顔を出したが、それと同時にドアが乱雑に閉められた。
「兄さんのばーかっ!」
罵声と共に階段を駆け下りていく音がする。そして音が無くなると、後には、静けさだけが残った。嵐のように来て、嵐のように去って行ってしまった。
窓から入る風が部屋に入り込み、頬を撫でる。辺りに散らばった衣類に、片付けるのは誰だと思っているんだ、と悪態を付き、その場に腰を落とした。
「逃げてるのは俺の方か……、人のこと言えないよな」
ぽつりと、自分に呟いた。
やる気の起きないままバイトへ向かうと、後輩が中年男性に絡まれていた。バイトを始める前に、飲み物を購入しようと自動ドアを開けた矢先だった。
「すみませんっ!」
レジで、後輩が中年男性に罵倒され、謝罪している。俺は遠巻きにそれを見つめる。皺だらけのジャージ姿で、体格の良い中年男性は、目を吊り上げ喚きたてている。
「お前、ばっかにしてんじゃねいぞっ」
近づくと若干だが、アルコールの臭いが鼻腔を掠める。
その時、中年男性が手を振り上げた。俺は慌てて、後ろから羽交い絞めにして押さえ込む。男性は、加減を忘れてしまったように暴れだす。このままでは、危険すぎると判断した俺は、「警察に連絡」と後輩に叫び、懸命に男性を押さえ込んだ。
少しして、警察が到着し男性を連行して行った。俺は、無事に終わったことに安堵し、男性の肘に当たった頬が痛み、顔を顰める。絆創膏だけでも張ろうと店内へと戻ろうとした時、背後をふと、振り返った。そこには、一人の警察が後輩を呼びとめ、写真を取り出し尋ねていた。
「……この……と、女性を……知ら……いか?」
途切れ途切れに聞こえた単語に、俺は警察の手元に視線を移す。その途端に俺の心臓は騒ぎ始める。
後輩は写真を見ながら首を傾げ、知らないですね、と答えている。俺は、警察の目に留まらない内に、逃げるように店内に入り込む。そして、一目散に休憩室へ向かうと、自分のロッカー前に着いた途端、体の力が抜け、座り込む。誰もいないロッカー室は、静かだ。外にはまだ警察などがいて、賑やかなのだろうか。俺は、自分の暴れる心臓の心拍音が、体の中で鼓動するのを聞く。俺は、大きく息を吸い込み、吐き出しを繰り返し、暴れる心臓を宥めた。
警察の持っていた写真。それはまさしく彼女≠フ写真だった。
良かったことに警察は後輩だけに話を聞いた後、すぐに帰っていった。しかし、その後バイト中、俺は始終上の空になっていた。それを見た後輩が気を利かして、「先輩は先に帰ってください」と、言ってくれた。俺はその言葉にありがたくバイトを早く切り上げた。
暗い道中を、ぼんやりと歩きながら、考える。警察には既に彼女がこの付近にいたことが、ばれている。見つかるのも時間の問題なのかもしれない。
なぜ、こんなことに巻き込まれてしまったのだろう。しかし、俺は、巻き込まれてしまった以上、逃げ切るしか道はない。
俺は自分の玄関に着きいていた。鍵穴に乱雑に鍵を突っ込み、ドアを開け、入りこむ。ドアを閉じる際に、洗濯機が視界を掠る。
そのまま動作を止め、洗濯機を眺める。数秒の沈黙が流れた後、俺は洗濯機に、
「……ただいま」
と一言呟いた。
水曜日。
その日の朝、珍しく電話に留守電が入っていた。その留守電には母親の甲高い楽しげな声が入っていた。
「占ちゃんが、彼氏を連れてきたわよっっ!」
俺の家に来た理由は、彼氏との交際を父親に反対されたために、家出したそうだ。しかし、俺の家を飛び出した妹は、その後その彼氏とやらを家へ連れてきて、一悶着起こしたらしい。最後には、父親が根負けしたそうだ。最後に、妹の声で小さくありがとう、と留守電には入っていた。その事に俺は軽く笑みを浮かべ、留守電を消した。電話を見ながら、
「ごめんな」
俺は自分の行っている今のことを考え、目を伏せた。
そして、時刻は夕刻。俺は、バイトの準備をしようと鞄に手を付けたときだった。
タイミングを見計らったように、ドアが乱雑に叩かれる。その途端に心臓が跳ね上がった。俺は、煩く振動する心臓がある胸を落ち着けるように押さえて、慌ててドアの方へと振り返る。その間にもドアを叩く音が次第に大きくなっていく。叩かれるたびにドアは、微弱に揺れる。
俺は覚悟を決め、ドアをゆっくりと開けた。
しかし、開かれたドアの先には、見知った大家さんがいるだけである。俺は、危惧していた状況にならなかったことに、胸をなでおろす。
「なにか、ありましたか?」
俺は、大家さんに心中をばれない様、勤めて冷静に言う。大家さんは、何も気にしていない様子で、にこやかに笑顔を浮かべる。頬に、笑い皺が見えた。年齢が60だと、聞いていたがいつも元気で明るい人である。些かお節介なこともあるが。
「ほら、あんたの洗濯機壊れているって妹さんに聞いてね。困るだろうからって、私が修理屋を呼んでおいたのよ」
「はぁ、……修理屋っ」
俺はその言葉を、聞くとすぐさま大家さんを押しのけ、慌てて玄関から飛び出す。
ない。堂々と存在していたはずの洗濯機が忽然と姿を消している。玄関横に堂々といたはずだ。俺は、辺りを見回す。そして、下から聞こえた物音に慌てて怪談を駆け下りた。そこには小型のトラックがあった。そのトラックに洗濯機を積み込んでいる男がいた。しかし、斜めに差し込む夕方の太陽の逆光が邪魔をして、後姿しか視認出来ない。
「もうっ、あんたったら慌しいのだから、何も逃げやしませんって」
後ろから、俺に追いつくように、大家さんが呟きながら階段を下りてきた。そして修理屋さんを、見つけると声をかけた。
「あらあら、ご苦労様、大変だったでしょうに」
「いえ、仕事ですから」
修理屋は、中肉中背で作業着を身に着けていた。帽子を目深く被っていた為に、口元しか見えない。そして、修理屋は、俺の方へと向きを変える。
「“すべて”見たのですが、ここでは手が付けられませんので、一時期こちらで預からせてもらいます。書類等はその後、発送しますね」
俺は言葉に詰まる。喉が張り付いたように、声を出せない。俺は、修理屋を愕然と見つめる。修理屋は俺の視線を気にとめた様子を表さず、修理屋は言い終えると、洗濯機を載せたトラックへと乗り込んでしまう。俺は、止めようと口を開いたが、修理屋の逆光に照らされた修理屋の後姿に、息をするのを忘れてったように、呼吸が出来なくなる。
修理屋の後姿があの時、彼女と共にいた男の背中と綺麗に重なったからだ。
そのまま修理屋はトラックと洗濯機と共に走りさって行った。
俺は、結局最後まで彼女を助けられなかった。
木曜日。
「いらっしゃいませ――」
俺は店の自動ドアを開けた客に、声を張り上げる。
あの後、俺は何をする気力もなかった。しかし、食べていくためにバイトを休むことも出来ず、レジに立っていた。
太陽がすっかり見えなくなった時間帯。客入りも少なく、気だるい時間だ。俺は、レジ周りの仕事をやりながらふと、手を止め、溜息を吐く。そして、品出しをする為に、レジ前の棚へと、手を伸ばしたその時、また自動ドアが開いた。
「いらっしゃ……」
言葉を発する前に、ガラスが床にたたきつけられる音が遮った。俺は、驚きに自動ドアのほうへ視線を向ける。自動ドアの辺りには、茶色いガラス破片が散らばっている。
そこには、火曜日に問題を起こした中年男性が立っていた。
男は、口から泡を出しながら、目は虚ろで、正常ではない。さらに男から、ビールを体中に浴びたように強烈なアルコールの匂いが漂ってくる。男の視線と合った途端、男が笑い声を上げた。
「おまえのせいでお前のせいで、女房に、おでが、おれが、全部、逃げ、捨てられ、会社もずべ、て、首になっで、お前のぜいだぁぁぁぁあ――っ」
男は狂った叫び声を上げ、割れたビール瓶を持ち、俺に向かって飛び込んできた。避けることも出来ないまま、ゆっくりと“それ”が、自分の腹に入り込む感覚に、身を攀じる。“それ”が入り込んだ個所が、強烈に熱くなり、言葉にならない声を、口から吐き出す。だんだんと視界が霞む。音が、ぱったりと途切れていく。体中から何かが抜けおち、力が入らなくなる。
そして、俺は、彼女の笑顔を思い出す。屈託ない笑顔で笑う君を。
「罰……、か」
そして、最後に自分の思考は真っ白になった。
後日、修理屋から手紙が届いた。
「お疲れ様です。共同生活は楽しめましたでしょうか? 彼女はあなたに正々堂々愛して欲しかった。偽善じゃない愛が欲しい。と依頼を受けました。どうでしょう、彼女のことしか考えることが出来ませんでしたでしょう?」
持ち主の居なくなった部屋のポストに届けられた“それ”は開かれることはなかった。
- end -
2000-01-01
あとがき
お疲れ様でした。
ごめんなさい。
長めなお話を書き終わらせるのは初かもしれません。とても、ぐだぐだになっています。毎度毎度、短くしているので。
今回は、本当は穏やかに終わる予定でした。けれど、壊れました。
次回は、もっと努力します。
ここまで、読んで下さり、本当に有り難うございます。
これからの方は、目をつむって読んでください。そして、好きな風景を思い浮かべた方が、きっと幸せになれます。
これからの人も読んだ人もお疲れ様でした。
では、また会えることを祈って。
綺兎