「じいさんが倒れた」
それを聞いたのは梅雨に入ったばかりの小雨が降る日だった。小雨の降る音の雑音が雑じるも、電話越しに明確に聞き取れる。
いつもの冗談だろう……しかし、そんな言葉は口に出来なかった。先ほどから父の嗚咽が電話から聞こえてきたからだ。それは、重く頭の中に深く深く沈んでいく。
思い浮かべられるのは太陽の下で豪快に笑うじいさんの顔。自分の考えで行動する頑固な人で、時折の無鉄砲さには俺の家族も良く手を焼いていた。けれど、頼りがいのある人で、相談を持ちかければ納得の行くまで付き合ってくれる。
そんな兄貴分なじいさんで、みんなから好かれていた。
そんな俺も、じいさんを好きでいる一人。幼い時に川へ山へと連れていかれ、良く遊んでもらった。その時、俺は逞しい背中が眩しくて憧れていたのだ。それは記憶の輝かしい思い出として未だに覚えている。
だから病院に着いた時に、その人がじいさんだと思えなかった。じいさんは病院のベットの上にいた。ほっそりと折れそうな腕。浮き上がった骨。脂肪が削がれた体。表情には覇気が無い。あれから、十年の歳月は逞しい背中を変えてしまった。細い腕に刺さった点滴の針が痛々しい。こちらに気がついたじいさんが、視線を向けた。
「来たのか」
前と変わらない凛とした声。でも、力強さが無い。俺は考えを表情に出さないように、近くの椅子に座る。調子は大丈夫なのか、無理して起きていないで、などと当たり障りのない言葉を並べていく。じいさんは静かに昔のような調子で言った。
「死にかけのおいぼれ、気にしちゃいかん」
笑顔をつくるじいさん。昔ほどでは無いにしろ、調子は良さそうだ。緊張していた体から力が抜ける。
今度は逆に、じいさんが質問をしてきた。
「学校はどうだい、今年受験だろうに」
俺は言葉に詰まる。別に普通だよ、と硬くなってしまう声。最近の両親とのやり取りを、思い出す。両親は大学進学を勧めた。それが当然だと言う表情は、どんな言葉も撥ね退ける。だから、勇気の無い俺はそれを、受け入れたのだ。納得していない自分もいることも知っていた。
「後悔しても知らんぞ」
じいさんは針が刺さっていない方の手で、俺の頭をぐしゃぐしゃに掻き乱した。昔から、悩んでいたら頭を撫でられる。話すなら聞いてやるという合図だ。言わなくても分かってしまう鋭いじいさんには敵わないな、少し苦笑いを浮かべる。
だが、俺は首を横に振った。じいさんを悩ますわけにはいかない。今は自分の体だけ考えてほしい。
「そうか」
言わんとしていることを感じとったのか、じいさんは目を細めた。それは昔と変わらない光を持っていた。複雑な感情が沸き起こり、俺は自分の手を白くなるほど、強く握りしめる。すると、その手にじいさんの手が重なった。
「わしは、もう助からないのだろう」
じいさんは、ぽつりと尋ねるように呟く。俺は目を見開き、俯いた。何か言わなければならないのに、何も言葉が見つからない。そんな俺に、じいさんは頭を撫でた。じいさんの方が辛いだろうに、泣き言一つ洩らさない。俺は、ただただ悲しくて涙を溢れさせる。胸が引き裂かれるように、辛かった。
「ひとつ頼みたいことがある」
じいさんは懐から、白い封筒を取り出した。後ろを見ても、表を見ても何も書かれていない封筒。中身で、少し封筒が膨れている。
「これを渡してくれ、あいつに。今日は多分ばあさんの墓にいる筈だから」
俺は黙ったまま頷いた。
暑い昼。燦々と照りつける太陽。梅雨の間の一瞬の夏模様。
汗が頬を伝わる。熱気で体中の水分が汗に変わっているようだ。
病院から駆け足しで、ばあさんの墓参り。とんでもなく変だなと、少し口元を歪ませた。坂を登れば、墓地が見えてくる。果たして、じいさんの言っていた人は入るのだろうか。居なかったらどうするのだろう。そう考えると、足が重く感じた。
「いた」
お寺の裏側の、木陰の向こう。沢山の無表情な石の先に、ばあさんの墓があった。そこに彼は、いた。じいさんと同世代らしい老人の後ろ姿。
「君は」
俺の足音に気がついたのか、彼が振り返った。髪は、灰色と白色のまだら模様になっている。じいさんの野性的な風貌とは真逆に、老人は紳士的だ。じいさんは、紳士的な気障な奴だと言っていたので思わず納得してしまう。
老人は訝しげな表情を浮かべて俺を見ている。これをあなたに渡せとじいさんに言われました、と俺はゆっくりと封筒を差し出した。老人は封筒を受け取ると、中身の手紙を見て口元を歪ませる。
「……そうか、君はあいつの孫なのか」
読み終わった手紙を、俺に手渡した。
「あれは持っていろ、と伝えてくれるかい」
老人に尋ねられた俺は逆に、あなたとじいさんの関係を、と聞いた。
「好きな女性を取り合った仲だよ」
老人は口元に微笑みを浮かべる。思い出を懐かしむように、遠い目をしていた。
「聞きたいかい」
老人に言われ、俺は頷いた。俺の幼い頃、死んでしまったばあさん。とても温かく優しい人だった。それに、じいさんは、ばあさんと知り合った時の事を父さんにも話していなかった。だから、知りたい。
「ならば、その手紙の場所に行ってから、じいさんに聞きなさい。きっと教えてくれるだろう」
去り際にウィンクしていく。その様に、気障な奴と言ったじいさんの言葉を思い出して少し笑ってしまった。
紳士が去ってから手渡された手紙を見る。そこには、たった少しの言葉と地図の切れ端。
俺はもう終わりらしい。だから、あの時のあれを返そうと思う。すまなかった、お前に会わなくて清々するよ。
走り書きのメモには、そう書かれていた。地図によると、ここから一時間程度でいけるようだ。時計を見ると、午後三時。我が家の墓に、少し手を合わせてからその場を後にした。
規則正しいテンポを伝えながら電車は動いていく。流れる景色を見ながら、心地の良い眠気に誘われる。がらんどうな車両には、俺と三人組の親子が乗っていた。それ以外にはこの車両に誰もいない。父親と息子は将来の話をしているようだ。電車の雑音に邪魔されながら声が聞こえる。
「僕ね、大きくなったら……になるの」
息子が、楽しげに話している。父親はそんな息子の頭を撫でる。
「お前の好きなように決めなさい。ただ、諦めるのは駄目だよ」
息子は頬を少し膨らませ、諦めないよ、と拗ねている。
そんなやり取りを、夢うつつで眺めていた。昔は俺もあんなことがあったのかな。
そんな考えを頭に浮かべた時、突然三人組の親子がこちらに振り返った。視線を向けると、愕然とする。三人組の顔は綺麗に真っ黒に塗り潰されているではないか。おぞましさに息が詰まる。右へ左へと視線を移せば、車内の景色は様変わりし、同じように真っ黒のクレヨンで塗りつぶされたような景色が広がっていた。三人組の声が頭に反響する。
「ねぇ、本当にそれでいいの」
瞬きした刹那、同じ顔の自分が俺を覗き込む。俺が、自分自身が顔を歪ませ笑っている。俺は身の内が竦む恐怖で逃げ出そうと足を動かそうとする。しかし、真っ黒な闇に飲み込まれ、思い通りに体を動かす事が敵わない。唯一自由が利く目は、さらなる恐怖を伝える。その時、後ろから細身の白い腕が延びてきて、俺の瞼を塞ぎ包んだ。その手は、温かく懐かしいぬくもりを伝える。
守られている、そう感じた。どこかで、同じことをされたことがある。確か、この懐かしい感じは……。
俺はそっと目を開ける。瞼の上から手は無くなっていた。
視界の眩しさに、目を歪ませる。そこは、景色も、空気も、全て元のまま。違うのは、車内に俺だけがいること。線路にそってテンポ良く電車は揺れる。俺は目を瞬かせた。夢を見たのだろうか。けれど夢だとは思えなかった。考えるだけで鳥肌が立ってくる、あれはなんだったのだろう。
「また助けられたね、ばあちゃん」
そして死んでしまったはずの懐かしい、手のぬくもり。二度と感じることが出来ないはずだった。俺は慌てて視線を上に向けた。だが、あふれ出した感情のように涙は零れてしまう。そして俺の心境に関係なく、電車は緩やかに目的地へとたどり着く。
殺伐とした野原。夕焼けが綺麗に見える丘。それが、地図に書かれた場所。夏の暑さは和らいできたが、野原までの急な坂道のせいで息は上がり、額から頬へと汗が伝う。
「……っ」
地図を頼りに埋められているはずの場所へと近寄った。しかし、そこは無残にも掘られた跡がある。そして、何も残っていない。辺りを見ると、杭が不自然に落ちていた。俺はそれを拾い上げると、凹凸に触れ目を凝らす。そこには寄り添うように、じいさんとばあさんの名前が彫られている。ここには確かに何かあった。しかし、いったい誰がこんなことをしたのだ。掘られた場所を茫然と、見つめていると眼の端に夕陽を浴び光るものを捉えた。
俺は慌てて掘り返す。それは、ガラス瓶の淵だったようだ。中に白い手紙のようなものが入っている。瓶の蓋を開け、慎重に中から白い紙を取り出す。古いようで、紙は茶色く変色している。
そこには、ばあちゃんの字が並んでいた。
「これを読んでいるときには、あなたは死ぬと覚悟したときでしょう。あなたは頑固だから、私には何も言ってくれないお返しです。私と彼を結婚させないために盃を隠したことを、彼は知っていましたよ、もちろん私も。私は、あなたの覚悟を嬉しく思っています。そうしなければ、私はあなたのもとへは行けなかった。けれど、正義感の強いあなたは最後にこの盃を彼に返すつもりだと思い、一緒にこの瓶を埋めました。あなたの後悔を一緒に背負う覚悟です」
じいさんもばあさんも相当な覚悟を負った恋愛だったようだ。俺は、ばあちゃんの手紙を瓶に戻すと、それを懐に大事に仕舞い込む。そして、元来た道を一目散に引き返した。
「彼女、あの子のせいで亡くなったのだろう」
病室の中から聞こえてくる声で俺はドアの取っ手に触れた手を止めた。その声は、あの紳士のものだ。駆け足で病院まで戻ってきたため体中が火照っていたが、心だけが急速に冷水を浴びたように冷えていく。
「恨みはしないのかい」
それは、俺が一番知りたいことだった。頭の中に、ばあちゃんが血まみれで俺の瞼を塞ぐ記憶が甦る。ばあちゃんは、俺を庇って死んでしまったのだ。じいさんを一人きりにさせてしまったのは自分。けれど、じいさんは俺を抱きしめただけだった。俺を罵倒もせず、恨みもせず、抱きしめてくれた。だけど、あの時のことは一度たりとも心から離れなかった。
「あいつは、無事で良かったと孫に言ったのだ。それ以上に大切な孫だ、それだけか。なら帰れ」
じいさんは怒気を孕んだ声で言った。その言葉に俺の肩の重さが軽くなった気がする。
「お前も変わらないな。……そうか」
軽く馬鹿にしたような口調。そして、寂しげにそう呟いた。唐突に、目の前のドアが開かれた。俺は驚きに目を見張る。
「ほら、入っておいで」
紳士がドアを開けたようだ。俺はなんとも形容しがたい心持ちで中に入る。じいさんに呆れた様子で、一瞥を食らう。
「では、昔話をしようか」
彼は、懐から茶色のものを取り出した。
それは、ブリキの缶箱。変色している。しかし、中にまでは至っていないようだ。周りを厳重に包んでいたのだろう、テープのような跡が残っている。
「渡したのか」
じいさんは俺に視線を向ける、俺は首を横に振った。俺は渡していない。渡しに行くはずが無くなっていたのだから。
「知っていたのだよ」
視線をじいさんに向けて、少し間を空ける。
「最初から全部、かな。彼女には元から振られていたのだから」
紳士はすべてを吐き出すように語り始めた。
「僕の父親が、勝手に式を推し進めていた、このまま式が始まってしまえば、と思ったが上手くいかないものだ。式に使うはずだった大切な盃がなくなり父親がそれどころでは無くなってしまってね」
じいさんは黙って聞いていた。俺も興味津々に耳を傾けている。
「それで、彼女すら行方不明になってね。使用人も」
そこで、話は終わったとでも言うように、紳士は俺に一瞥し、微笑みを浮かべると立ち上がり、病室から出て行こうとした。
それを、じいさんは止めようとはしなかった。その時、ドアを半歩出たところで紳士は止まる。そして、振り返らずに言った。
「だから、盃については何も分からないよ。知りたいとも思わない、これからもね」
そして、もう用はないというように紳士はドアの先へと消えた。もう、二度と会うことは無いのだろう。じいさんも分かっているようで、ドアが閉じた後も視線を逸らさずに、見つめていた。
紳士が座っていた椅子にはブリキの箱がそのまま残されていた。
俺は、ブリキの箱にゆっくり触れる。薄汚れたブリキの箱。それを、じいさんへ差し出す。じいさんは、こわれものを、扱うようにそれを両手で受け取った。
「失望したか」
少しして、じいさんは静かに言った。俺は懐の瓶を簡易机に置く。彼はこれも見たのだろう。そして、俺が渡すことも見通して残していたのだ。
「ばあちゃんも俺も失望なんかしていない」
じいさんはそれを聞くと目を見張る。俺は答えを聞く前に病室から出て行った。照れくささを感じながら、去り際に、一言。浅く心臓が少し煩い。
「じいさん、さっきはありがとう」
そして、ドアは静かに閉じた。
俺はドアの前で、息を吸ったり吐いたりする。決意を身に染み込ませるように。そして、足を一歩一歩踏み出した。
自分も覚悟してみるのも良いかもしれない。後悔するよりも、しないでする後悔よりはずっと良い。
俺は両親に何を伝えようかと考えながら、微かに嗚咽が聞こえる病室を後にした。
- end -
2000-01-01
あとがき
一番何を書こうか迷った作品でした。
綺兎