オリジナル


「音域」



私はある一定の音を聞き取ることができない。
両親は私が子供の頃に一部の言葉に反応しないことから不思議に思い、病院で検査を行った。けれども、医師に正常なはずだ、と首を傾げられてから、生まれつきなものだと聞かされた。けれど、日常的に困ることはない。その音域以外の言葉はしっかり聞き取れる上に、聞き逃したとしても再度確認すればいい。しかし、時折電車内のアナウンスなどで駅名の部分が聞き取ることができず慌てることがある程度なので、日常生活上にはそこまで困らなかった。
そのごっそりと抜け落ちた音域がどんな音なのかを聞き取りたいとも思うが、私の世界ではその音はないものであることが20年生きてきた日常であり、普通だった。

しかし、目の前の彼にとって、それは異常なのかもしれない。
「…………」
目の前の男が何かを笑顔で私に向かって話しかけている。見知った友人の顔ではないので、見知らぬ人のはずだ。私よりも頭一つ分高い身長に、視線を上げる形になっていた。男は私と同じくらいの年齢のようで、少し日に焼けた肌に、何かスポーツをしているのか中肉中背よりも少し引きしまった様子である。
そして、彼の音が私にはまったく聞こえない、聞こえない音域ど真ん中で喋っている。私に向って、時折照れた様子で首に手をまわしながら、視線をそらしながら何かを喋っている。微笑ましい様子なのだが、困ったことに音声がない。無声ドラマを見ているような心持ちになった。
いつものように降りる駅を電光掲示版で確認しながら、電車を降りて改札に向かうところで肩を叩かれた。振り返りながら何かご用でしょうかと尋ねるまでは良かった。そこまでは対応できていた。
しかし、彼が口を開いた途端耳を澄ましてみても雑音の中に彼の声が無い。そして、聞こえない音を思い出し、私は顔を青ざめた。彼は固まった私を見て困ったように首を傾げると、少し悲しそうな表情を浮かべ、頭を傾けると何かを呟き、謝るように立ち去ろうとした。

その様子に思わず私は彼の背を引っ張るように掴んでしまう。私は自分の行動に唖然としながらも、恐る恐る彼へと視線を向ける。彼は振り返り、茫然とした表情を取ったが、一瞬ではにかんだ柔らかい笑顔を浮かべた。
余りにも綺麗に笑う彼に私の中の何かが弾けた。友人にも打ち解けるまで言わない事なのに、見ず知らずな彼に思わず呟いていた。

「音域が聞こえない部分で、声が聞こえないだけなのっ」
口が勝手に喋ってしまった、私は咄嗟に口を塞ぐ。それを聞いたら、彼が訝しむような目を浮かべるかと思った。しかし、彼は逆に安心したような表情を浮かべる。そして、何かを考えたような表情を取ると、次には手を取られた。掌を広げられ、指でなぞる。擽ったい感覚に我慢しながら、掌を見やると彼は文字を書いていた。彼は私が分かるまで何度もなぞる。文字が何かを分かった途端に私は顔が赤くなってしまった。慌てて視線を逸らす。その行動に嫌われたと感じたのか、彼は視線を逸らした私の手をゆっくり放す。そして、寂しそうに笑顔を浮かべた。私をまっすぐ見ると唇を動かした。最後のお別れのように。
「ごめん、好きで居させて下さい」
声が聞こえた。聞こえない音域が綺麗なテノールなんだと初めて知った。我儘な耳が少しだけ、聞かせてくれた音に感謝した。無い筈の音が聞こえた事に、涙が零れる。彼は驚いたように、慌てた様子でハンカチを差し出した。
慌てる彼に笑顔を作る。彼の手を取ると掌を指をなぞる。そして、彼が次には照れたように綺麗な笑顔で笑ってくれた。

終わり





- end -

2009-5-26

あとがき



部活提出用でしたが、形式間違えちゃいました☆ すいません。

綺兎